阪神・淡路大震災が活動の原点

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1995年1月17日、午前5時46分。あの瞬間が私の活動の原点です。
(朝日新聞社刊「官邸応答せよ」に掲載されたものから転載)

悪夢のような夜明け前
なにやらいやな夢をみていたような記憶がある。突然身体がドーンと突き上げられる動き。その後に振り回される感じがした。被災した人が始めに想像したことは千差万別だが、私の場合は「核爆弾がおちた」と思った。大きな揺れが去ると、漆黒の闇と静寂の世界。遠いところで「ボーン、ボーン」となるような音が聞こえる。風が直接部屋の中に吹き込み、水の流れる音と、割れたガラスが崩れるような音が聞こえる。目を凝らすとリビングの方に白いものが斜めに横たわっている。「天井がおちたのか?」と思った。とにかく死の恐怖である。うまれてはじめて死ぬ間際の恐怖を味わっていた。隣で寝ていた家内の名前を大声で呼ぶ。自分ではつとめて落ち着いた声をだそうとしているが、恐怖のあまりとてつもなく低い声がやっと出た。家内と1歳の子供の安否を確認した後に家の中を見回した。必死に目を凝らしてもうっすらとしか見えない。漆黒の闇というもの自体あまり経験がないものである。倒れていた白いものは天井ではなく冷蔵庫であることがわかった。まず懐中電灯を探したがみあたらない。どこにおいていたかすら思い出せない。最近歩き始めた1歳の子供がこわれた硝子で足を切らないように家内が必死に寝かしつける。そうしているうちにどこからか光りが差し込んでやや目がなれてきた。倒れ込んだ冷蔵庫が出入口を塞いでいる。このままでは火事があったとき逃げられない。そこら中のものがくだけ散るのもかまわず冷蔵庫だけを引き起こした。

しばらくすると外が少し明るくなってきた。マンションの隣の部屋のドアを叩く人がいる。表へ出て「どうしたんですか?」と聞いてみると、御主人が夜勤で中には奥さんと乳児だけだという。家具の下敷きになっているかもしれない。まったく返事がないのである。

その人は近所にすむ、奥さんのお父さんであった。「ベランダの方から声をかけてみます。」といってベランダに回り込んで声をかけたが返事がない。「ここのベニヤ板をわりますよ。」といって、避難用のベニヤ板を叩き割った。これがなかなか固い。女性だけだったら割れなかったかもしれないな、と思った。

お父さんがベランダ伝いに部屋に入り確認したところ、奥さんと子供は大丈夫だった。しかし何が起こったのかも分からず、表を叩かれても出ていいのか分からなかったらしい。奥さんは恐怖とその後の安心感からか涙を流していた。

始めの1時間くらいはまだ電話が比較的つながったので、事務所スタッフの安否確認を行った。当時お世話になっていた市民活動出身のT議員の家はいくら電話をしても連絡がつかない。部屋を片づける気はまったくなく、とにかく家内と子供を安全なところまで逃がして被災地に入ろうと思った。

ラジオの情報から神戸の南側が壊滅していることを把握してから、まず北へ北へとはしろうと考えて車にのった。かなり大回りをして、家内と子供を吉川の実家に届け、その足で六甲北有料道路から六甲トンネルを抜けて東灘区に入った。

六甲トンネルをでてすぐのあたりから、各所で煙があがっているのが見えた。道路もまともではない。随所で段差が生まれ、速度が出せない。ラジオを聞くと地元局がラジオカーを走らせて取材を続けていた。このラジオカーの移動具合いを聴きながら、すいている道を予測して走ることにした。

変わり果てた姿・神戸のまち
 住吉のT議員宅についたのは1時過ぎだった。いたるところが破損し、オートロックも停電のためかかっていない。「こんにちは。大丈夫ですか。」ドアを明けて声をかけると、奥さんが不安いっぱいの表情ででてこられた。3歳の長女が奥さんの服にしがみついている。「Tさんはどこですか?」ときくと、「1時間ほどでかえるといって朝早くに携帯電話をもってでていったきりなんです。」との返答。「だれか一緒にいっているんですか?」「いいえ1人です。」私は即座にもっていた携帯電話からT議員の携帯に電話をしたが、まったくつながらない。安否が心配であるが、探しようにも探すことはできない。「とにかく事務所にいってみます。」と言い残して車に飛び乗り、三ノ宮方向に走りだした。見慣れた町が見慣れた風景ではない。まるで違う国にきているようだ。いや、世紀末の破壊の限りを尽くされた町にいるといったほうが的確だろう。倒れるはずもないとおもっていた大きなビルの1階がくだけ、斜めになっている。完全に横倒しになったビルもある。木造の民家はことごとく崩れ、その前で呆然と人々が立ち尽くしている。渋滞をさけて裏道に入れば、瓦礫で行き止まり。しかたなくバックでもどり、走れる方向に走る。とおまわりでもいい。とにかく動く方に走りながら道を探していくのである。20センチ近くある段差では車は腹を打つが、そんなことは気にしてはいられない。走っている車の中にはフロントガラスがないものや、トランクがひしゃげたものなどがたくさん走っているのである。行き止まりが思った以上にたくさんあり、一歩通行を逆走することなど茶飯事だった。阪神電車とJRの高架がおちているのが最大のネック。南に下がろうとして走っていけば高架が完全におちていたり、車の天井すれすれまで落ちてきている。そこを命からがらくぐりぬけなくてはならない。事務所についたのは2時半くらいだった。すでに事務所長のKさんがきた形跡がある。玄関に名前を書いたメモがはりつけてある。私もとりあえずそこに名前を書き、事務所の中に入った。プレハブであったことが幸いして、事務所の建物は倒壊の危険もなく立っていた。しかし、中は完全に破壊されている。事務所の電話はビジネスフォンなので停電していて使用できない。しかし、ファックスだけは独立回線だったことを思い出して試しにかけてみると東京事務所につながった。「今、赤坂の党本部に災害対策本部がおかれた。神戸のT事務所に党の現地対策本部をおく。」という指示があった。しかし、電話も通じない、スタッフは私一人、他のスタッフの安否も分からないという現状である。とりあえず「兵庫県南部地震特別対策本部」という手書きの看板をあげた。そうしているうちにファックス回線もなぜか不通になってしまった。このまま事務所にいても仕方がない。とにかくつながる公衆電話をみつけるため外に出た。しかしこれがなかなか見つからないのだ。思いついて、兵庫県庁にいってみると1階の公衆電話が生きていた。東京事務所との連絡で、代議士は灘区周辺にいるらしいことが分かった。「とにかく、T議員宅に戻って帰りを待ちます。」そう告げて東灘区に向かって走りだした。
神戸は死んだ
 途中東灘区にすむ友人のM夫妻とMさん宅で合流した。彼のマンションも半分が崩れかけている。しばらくマンション周辺を巡回し、避難が終えられているかを確認した後に、3人でT議員宅に向かった。しかし、1度帰ってきたが、今度は神戸市の災害対策本部に向かったという。東京事務所と話をすると、Kさんがすでに対策本部に向かっているとのことだったので、スタッフの安否を確認するために東灘区と灘区を3人で巡回することにした。走れば走るほど被害の奥深さがまざまざまと感じられてくる。倒壊なんてものではない。どういう壊れ方をしたらこんな土のかたまりになるのか。救出活動は一巡して、もう素人ではどうしようもないが、瓦礫の下にまだまだたくさんの人が埋まっている状態である。うる覚えの住所を頼りに、ボランティアスタッフやお世話になった人達の家を回った。電気のない生活というのは、イコール情報と隔絶されるということである。あるボランティアスタッフのおかあさんは、淡路が震源地であるというのを知らずに夜まで家に閉じ篭もり、「神戸でここまでゆれたのだから、東京は壊滅しているのではないか。」と思い込んで、東京にいる長男を心配していたという。携帯電話を通じて初めて電話が通じたとき双方ともに涙を流していた。 また別のスタッフの家は完全倒壊していた。安否が分からない。あたりの人に聞こうと思って探していると、ガレージのような所に人の気配がする。「こんばんわ。」と声をかけて懐中電灯で中を照らして驚いた。狭いガレージの中に40人近くはいるだろうか、びっしりと避難者が方を寄せあい、毛布にくるまっている。「あのおたくなら全員避難したよ。」と聞き安心したが、家を失いガレージに身をよせる人達の心中を思ってつらい気持ちになった。その後、御影北小学校という避難所にいった。ここにはMさんの近所の人が数多く避難している。職員室にいって先生と話した。「水がないんです。」 震災後に西区からかけつけたという女性教諭は切実に話してくれた。見るとポリタンクが5つだけおかれている。「今何人おられるんですか。」と聞くと「500人いるんです。」と返事が返ってきた。

すぐに災害対策本部にいるT議員に電話を携帯電話で電話をかけた。人間が生きるために最低必要な水がないという現実は、T議員を通じて本部に伝えられ、水対策が最優先で進行し、夜半には御影北小学校にも十分な水が届いた。
電話がつながらないということだったので、携帯電話を1台職員室に置いて、災害対策本部でT議員と合流するために移動を開始したのは、12時をまわったころだった。

8階の対策本部
 神戸市役所は喧噪の中にあった。2号館の6階部分が完全に消滅している。1階と2階のロビーでは避難民が溢れ、報道陣と行政担当者が引っ切り無しに行き来していた。エレベーターが十分に稼働していないので、徒歩で8階にあがる。災害対策本部についたとき、T議員は受話器を握っていた。「とにかく大臣には王子公園におりてほしいんです。少しの時間でもいい。神戸の現状を空からでなくみて欲しいんです。」大臣とは18日の朝、視察を予定しているN建設大臣である。東京からは「できる限り努力します。」との返答があったということだったが、結局は空からの視察だけになった。8階には対策本部が置かれているわけだが、それ以外にも「土木局」「水道局」などのスペースがある。これらは、2号館からかろうじて持ち出せるものだけをもって移ってきた「被災局」である。昔からお世話になっている水道局の係長は「名刺をもってなくて申し訳有りません。まさかこんなことになるとは思っていなかったので、すべて事務所の机にあるんですよ。2号館の6階のね。」と力なくいった。重要な水道関係の資料もすべて2号館6階にある。自らのビルが倒壊することなんて誰が予測しただろうか。報道陣の陣取る部屋の真ん中に、知り合いの神戸新聞の記者が記事を書いていた。彼の本社は壊れてしまったが、記者魂で不眠不休で頑張っている。新聞社以外にもテレビ局のカメラが多数入っている。「神戸市役所8階の~」というコメントが災害情報の定番になってしまった。まさに市民と行政をつなぐ最前線である。

午前2時半を回った頃、T議員を含む4名は災害対策本部をあとにして、避難所の現状を確認するため、神戸市役所を離れた。神戸の町の瓦礫を暗闇の中で見ると、本当にまだ悪夢をみているようだ。

「夢なんじゃないだろうか。」 自らの町がまさに世紀末を絵に書いたような破滅の町になってしまった現実をどうしてもうけいれられない自分がいた。 の時の気持ちをを思い出すと「これから神戸はどうなるんだろう」という不安よりも「神戸が滅亡してしまった」という寂寞とした気持ちがよみがえる。まさに都市が死にゆく様をまざまざと見せつけられているのである。まだ長田は燃えている。土砂の下には数えきれない人が埋まっている。

諸行無情。心の中の価値観が完全に崩壊してしまった。

避難所の現実
 御影北小学校の校庭はさらに自動車の台数が増えていた。みんな自動車の中で暖をとりながら休息している。避難所の中でも眠りについている人は少ないようだった。いつまた余震がくるかもしれない恐怖はぬぐい去れない。T議員は職員室で校長先生と話した後に各教室を訪問した。1つめの教室にはいるやいなや、椅子に座っていた女性から「衆議院議員のTさんですね。」と声をかけられた。それからかなりの時間、神戸市の現状やこれからの不安について、ひと部屋ひと部屋たずねて歩いた。どの声も恐怖と不安に満ちた切実なものだった。その時私は、日本国中でこの地域だけ「政治」の持つ意味が変わったことをしった。いや、「あるべき姿」に戻ったというべきだろうか。これまで、政治事務所としていろいろ活動している中で、市民サイドから切実な要望を聞くことは希だった。本来、国民の代表である「政治家」が国民一人一人の要望を一身に受けて、それを国政に伝える責任を負う。このあたりまえだったはずのことが日本ではなりたっていなかったのである。避難者の中には自らが行政とかけあった人も何人かいた。しかし彼らのほとんどが「こまっているのはみんな同じだよ。」という言葉で門前払いされた事実を私は知っている。私はそんな人達の声を可能な限り行政に伝えることを心底誓った。犬がけたたましく吠える。緊急自動車のサイレンのせいだろうか。くくってある犬を引っ張って校庭を散歩させた。調度震災から24時間になろうかという午前5時過ぎに、震度4くらいの大きめの余震が来た。校舎の中から何人かが駆け出してきたが、被害は特になかった。その後御影北小学校を離れてとりあえずT議員の家に帰ることにした。T議員宅のリビングで避難してきた仲間も含めて10人ちかくが1時間ちょっと雑魚寝をした。
THE DAY AFTER~その次の日
 朝は7時過ぎに目覚めて、女性陣がつくってくれたにぎりめしを食べ、T議員を与党調査団に合流させるため出発した。しばらくいくと、おびただしい人数が北へ北へとあるいてくる。その人達すべてがリュックを背負ったり毛布をもったりしている。窓を明けて「なにがあったんですか?」と聞くと、「田中町と徳井町のあたりはガス爆発の危険があるから避難勧告が出たんです。」という。「どこへいくんですか。」と聞くと「いえ、北にあがれと指示があっただけで、特に避難所の場所は聞いてません。」とのこと。2万人近い人が避難を開始したのだ。避難所が収容しきれないと判断した当局(?)は、具体的な場所を示さず「北へあがれ」とだけ指示したらしい。あるおかあさんは小さな子供を胸にしっかりだいて上から毛布を纏っていた。「東明」という名前の交差点で与党の調査団と合流した。T議員だけをマイクロバスに送り込み、そのあとを三ノ宮まで追走する。途中にはかなりの段差があるところがあり、車の腹を打ちつけながら走った。43号線の上には阪神高速道路が走っており、これがいたるところで崩れかけている。コンクリートの支柱の鉄筋が露出し、中でコンクリートがこまかい塊になって砕けている。「今きたら死ぬな。」と実感しながらやっとの思いで三ノ宮についた。昨夜真っ暗な中で少しかいま見たが、明るい日差しの中で見ると三ノ宮の破壊状況は凄まじい。思いで深い映画館のある阪急三ノ宮駅のビルは崩れかかっている。その南の交通センタービルや、駅の北側の日本生命ビルは階が1階おしつぶされてなくなっている。そごうも部分的に崩れ落ちている。与党の調査団は三ノ宮を視察した後、県庁に向かった。
ボランティアチーム結成
 その後私たちは代議士と分かれて、T事務所にたどり着いた。各区から自動車を持ちよってボランティアチームの誕生である。この日は8名のスタッフがあつまって活動のためのミーティングを開始した。当初は被害の少ない地域を回って毛布や食料品等をあつめて、避難所に配ろうというプランだったが、今朝の大移動が起こった後には避難所にいる避難者の人数は大幅に膨れあがっているはずであり、ちょっとやそっとの援助ではどうにもならない。さらに持ち寄った情報から被害は神戸市のほぼ全域に及んでおり、供出を得るという動き自体がかなり無理があることが分かった。とりあえず現状をもう少し知るために市役所の対策本部に行ってみようということになり即行動を開始した。災害対策本部でさきがけ神戸ボランティアチームとして協力体制を固めつつあることを報告し、民政局課長より、市役所1階にいる避難者のための水の運搬の後、最被災地である東灘区の街づくり推進課の配送業務を手伝って欲しいとの依頼があった。まず奥平野にある浄水場から神戸ウオーターの在庫をすべて引き上げて市役所に搬送。その後、東灘区まで走り区役所の指揮下に入った。
避難所へ直送せよ!
 東灘区役所についた頃、まだまだ物資の数は少なかった。何台かのトラックが物資を運んでは下ろしていく。しかし、しばらくすると、10トンクラスのトラックが何台もつくようになり、区役所の前はみるみるうちに荷物の山になっていった。特に東灘区役所は国道2号線に面している。これがそもそもの大きな問題だった。東から西にむかって侵入してくる車はすべてといっていい程国道2号線を通ってくる。なぜなら、本来主要道路である阪神高速神戸線と湾岸線は橋脚が落ちているところがあり通行禁止。さらに国道43号線も東灘の東で阪神高速が横倒しになっており通行禁止。結局神戸に入る便はすべて国道2号線に入る。 緊急自動車であろうと同じことである。サイレンを鳴らしながら走ってくるがまったく前に進めない。けたたましいサイレンをとめないまま停滞している。区役所に荷物がたまってしまう最大の原因は配送する車両の絶対的な欠如である。10トンで運び込まれた荷物を各避難所へライトバンや1トンクラスで運び出す。中には軽自動車もある。これらのうちのいくつかは周辺企業からの協力車両である。その上オペレーションに不手際が多い。区役所の職員も頑張っておられることは心から認めるが、しばらく見ていると到着貨物を下ろすばかりで、ずっとまっている配送車両に積み込む気配がない。ある車などはもう1時間以上もなんの指示もないまま待ちぼうけている。

私は積み卸しを手伝っていたがこのままでは大変なことになると思い、道路付近に出て搬入出の誘導を買って出た。「まず配送車両を入れて積み込んで!到着したトラックは一列にならんで待ってください!」大きな声を出さないと聞こえない。「はい、この車はいって!この車はここにとまって!」順繰りに作業をしていると、何人かが私の周辺で同じ様に指示を手伝ってくれた。あとで聞くと彼らも一般市民である。近くにすむアメリカ人だというの青年も一緒になって手伝ってくれた。 しかし、到着貨物は10トンでくる。その上大渋滞で一端でていったら2~4時間は帰ってこられない。このままではいけないと思った私は、でしゃばってはいけないと分かっていながらも指示を出している課長らしき人のところにいった。「すみません。トラックを避難所に直送させてもいいでしょうか。」「いやここでおろすことになっているから。」「でもこのままでは区役所の前に置ききれませんよ。」避難所に物資がない現実を知っている私はなんとか少しでも早く物資を避難所に届けたかった。

「おねがいします。」と頼み込むと、「おまかせします。」との返事が帰ってきた。すぐにトラックの運転手さんのところに行き直接交渉を行う。「避難所に直送してほしいんです。」「でもうちはここで下ろせといわれてるからなあ。」しぶる運転手さんに手をすり合わせながら拝み倒してなんとかよい返事をもらうと、課長のところへつれていき配送先の指示をもらう、この繰り返し。少しは荷物がはけ出した。

外で自動車を誘導していると、大阪方面に走る車から男性が降りてきて私に話しかけてきた。「すみません。私達30時間なにもたべていないんです。おねがいしますから、何か食べるものを分けてください。お金ならいくらでも出します。」私の一存で物資を分けるわけにいかないので「すみませんが、区役所の担当者に言ってみて下さい。」と伝えて、担当のところまでおつれした。

誘導に戻ろうと歩き始めたとき、後ろで話している担当の声が聞こえた。「だめです。ここではおわけできません。避難所に行ってください。ここでわけたら、どういうことになるかわかるでしょう。あなただけにお渡しすることはできないんです。」その人は虚しそうな顔をして自動車に戻った。この現状において私にはどうすることもできない。区役所の担当のいうことも一理あるのである。私はその人に「時間はかかるかもしれませんが、尼崎まで行けば普段と変わりないらしいです。もう少しですから頑張ってください。」声をかけて虚しく見送った。

まっくらな安置所の中で
 物資の搬入の合間に毛布が通る。毛布といっても配給物資ではない。ご遺体である。東灘区役所は物資の配送センターであるとともに、ご遺体の安置所であった。乗用車の後部座席に積まれた遺体。ライトバンなら2体のっている場合もある。随時運び込まれるので、全体数がどのくらいなのか作業をしている時には把握していなかったが、夜になって区役所の建物の中に入って驚いた。数十体のご遺体が毛布に包まれて床に並べられている。停電しているので真っ暗な中に、発電機か何かで電源を供給されている白熱球がついている。私は頭の中がまっしろになってしまった。これだけの数のご遺体を一時に見るという経験はこれまでなかったし、これからも無いかも知れない。涙がでるという気持ちより、やりきれないというほうが近かった。ボランティアの人だろうか。女性が2人で毛布をめくってはご遺体の体を拭いている。私の右にはおばあさんが1人床に座り、「ありがとうねえ、見ず知らずの人なのに、よくしていただいて、ほんとうにありがとうねえ。」とぽつりぽつりと独り言のように話していた。私は無意識の中で手をあわせて黙祷していた。「この人たちが何をしたというんだ。いったい何が生死を分けたんだ。なぜ突然死ななければならなかったんだ。」そういう言葉が心の中を渦巻いていた。

21時を回った頃、東灘区役所を離れて事務所に戻った。事務所は何人かのボランティアスタッフによって片づけられ何とか入れるようになっていた。2階のミーティングルームで代議士を交えて活動報告を行い、明日の動きを決める。ミーティングは深夜2時近くまでかかった。この日から連日深夜に渡るミーティングをやる日々が続くことになる。

独自の支援物資を確保するため、関係のボランティア団体から有機野菜や水、その他の物品が大挙して届くことになった。「行政だけにはまかせておけない。」そういう思いがスタッフ全員の心の中に沸き上がっていた。「行政が市民全体を平均的に救済するのであれば、私たちは出会った人を最大限救援しよう。一人でも多くの人を。」

毛布にくるまれた悲しみの搬送
 19日は車両、人数ともに大幅に増えたので、東灘と灘の2隊に分けて活動を開始した。車両数は6台。私は灘の担当で灘区役所に赴いた。2日目とあって灘区役所の物資オペレーションは、昨日の東灘に比べると円滑だった。区民センターも構造上物資の円配送に適していた。物資の積み込みを待っていると区の職員さんから頼みごとがあった。今区内の各所からご遺体を回収して回っている。ご遺体は1~2名では運べないので、運び要員をのせていくお手伝いをお願いしたいという趣旨だった。私は即座に快諾しそちらの業務に従事することとなった。コルサに5名乗り込んで、もう1台は区がもっている赤十字車両。掘り出されたご遺体を車にのせて安置所まで運ぶ。戸板の様なものにのっていたり、畳みに乗っていたり、毛布で包まれただけの方もいる。安置所がある地区会館についたら車から抱き抱えるように引っ張り出して担架にのせて3階にある安置所まで運ぶ。エレベーターがないので、すべて手運び。1体運んでいると次の車が着き、どんどん運びあげて行かなくてはならない。「もうこれ以上むりです。」というところ、「それぞれのご遺体をもう10センチづつ近づけたらいけるんじゃないですか。」といって「すみません。動かします。」と声をかけながら1体1体ひっぱって動かした。普通であればそれぞれが一つの部屋をもらってもよいはずのご遺体であるが、安置所では毛布が重なり合う距離で部屋いっぱいに並んでいる。

淡路島の映像ではかなり早い時期に棺桶に納棺されていたが、神戸では3日目にしてまだ棺桶は各安置所に届いていなかった。お線香もたかれていない。我々の間で共通語となってしまった「すえた匂い」という死臭が部屋中に充満していた。

あるお宅に引き取りに行ったらご遺体はまだ家の中だという。見ると1階が完全倒壊していて手がつけられない。「すみません。私たちでは引き出せませんので、自衛隊か何かをまわします。」といってその場を離れるしかなかった。

いっしょに回った区の担当者の方は、きわめて適切な現場対応をしておられた。聞くと、係長試験を受けずに現場一筋で歩いてこられたとのこと。システムに乗っ取って頑張ってきた課長より、一本筋の通った職員の方が緊急現場ではすばらしい力を発揮されることを実感した。暗くなると、ご遺体回収部隊が到着したころには、すでにお家の方が運んでしまわれているケースが多くなったので作業を切り上げることになり、事務所にもどった。

夜を越える人たち
 午前0時ごろ、事務所に戻ってからT議員とT議員の弟のSさんと私の3人で、灘区の大和町、中郷町付近に赴いた。Sさんの自宅は大和町にある。建物自体の倒壊こそないが、裏にたっていた巨大な文化住宅がマンションめがけて崩れ込んでいる。鉄筋のマンション以外の木造建築の殆どは倒壊している。まるで砲撃でもされたような有り様だ。石屋川公園に向かって路地を歩いていると、駐車場らしきところから光が見えた。よくみるとブルーシートを屋根にして工事用の単管を組み合わせた仮設テントらしい。真っ暗な夜の中でそこだけがほんのり明るい。深夜ではあるが、何人かテントの前で作業をしている。テントの中には煌々とドラム缶焚き火が燃えている。「こんばんわ。」と声をかけた。「衆議院のTですが。」はじめは面食らった様子で見ておられたが、すぐに国会議員であることがわかり、一様に驚かれていた。「まあまあ、こんな夜遅くに。」「議員さんがきたのは初めてや。」と口々に話しておられる。「このあたりに何人くらいおられますか?」私の問いに「44名います。」との返事が返ってきた。小さなバラックテントを中心に44名が生活をしている。「なぜ避難所にいかないのですか。」ときくと理由は2つあった。一つには「避難所がいっぱいで入れない。」こと、もう一つは「火事場泥棒が徘徊していて、自分の家を守らなくてはいけない。」ことだった。「警察が回っているっていうが、一度もきたことないよ。火事場泥棒がこないように一晩中火を焚いているんです。」とのことである。しばらくはお話を聞いて、車にのっていた支援物資の使い捨て懐炉を人数分お渡ししてまた歩き始めた。路地の瓦礫を踏み分けながらさらに行くと、また駐車場に光が見える。おばあさんが一人テントから出てこられたので声をかけた。「私は一人暮らしだったんですけど、今ご近所の人に助けられて車の中でくらさせていただいております。この付近に仮設住宅が建つまでは、ここでみんなと暮らします。」疲れてはおられたがはっきりした声でそう話された。「この家の下には、若いご夫婦が埋まってられるんですよ。それにこの文化住宅には3人、ここには2人まだおられるんです。」私たちは、思わず合掌した。もう3日目の夜である。みんなだめだろう。

まっくらな中を歩いていると、震災当日の死の恐怖が改めてよみがえってくる。あの日に家に押しつぶされた人がまだこのあたりにはたくさんそのままでおられる。心から祈りたい気持ちになった。 T議員とSさんは、午前3時ごろ分かれて医師会館のご遺体安置所に赴かれた。私は、バンに支援物資を積んで、まだ避難所に行かずにテントで生活しておられる人はいないか探し始めた。

JRの高架を越えた路上に火を焚いている人影が見える。テントも何もない。歩道に座っておられる。聞いてみると。道をはさんだ向こう側のマンションの住人であり、夜は余震が怖いので家に入らずにここで火を焚いて一夜を過ごすという。やはり火事場泥棒の危険を感じておられるらしい。まだ東にテント村があると聞き走り出した。

震災前に、今や損壊してしまった新聞会館にある映画館で「シンドラーもリスト」という映画をみた。エンディングでシンドラー氏が「この純金のバッチでもう2人救えたかもしれない。この車を売ればもう5人救えたかもしれない。」といって切ない涙に暮れるシーンがあるが、このときの私の心境たるや、まさにそれに近かった。避難所に入れない人はおしなべて食べ物に困っておられる。本当に少量の食べ物を分け合って食べておられる。「もしかするともう少し走れば、テント村があるかもしれない。あの路地を曲がれば食べ物に困っておられる人がいるかもしれない。」そういう気持ちでこの夜は一晩中走り回った。

とあるテント村では、助け合いの輪が広がっていた。なけなしの食材を持ち寄り、何とか食べ物を確保しておられる。「この一帯は火の手が上がりましてね。石屋川から水を汲んでみんなで消し止めたんです。」との話を聞き、闇の中に目を凝らせば、あたり一面焼け野原である。消防の力を借りずに全部自らで消し止めたという。しばらくテントに入り込み火に当たりながら話を聞いた。「近所の人の力がなかったら火は消し止められなかったよ。」「石屋川が近くにあったからかろうじて消せた。」「消防車は全く見かけなかった。」これが高度な都市機能を誇る神戸の現実だった。

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