東日本大震災における災害対策活動

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東日本大震災では「震災ボランティア室」を立ち上げ。災害対策特別委員会としての政策立案活動にも従事。

 2012年4月10日

 仙台市へ入り宮城野区の瓦礫の蒲生搬入場の視察をさせていただきました。仙台市では海浜を発災直後から瓦礫置場を確保し、かなり早い段階から準備を進め、JFEの仮設焼却炉(写真)を5月末に発注し9月には試運転。3ヶ月で設置される早さと。もっとも重要な分別も適切に行われている現場を視察させていただきました。
これからの東日本大震災瓦礫処理のオペレーションについて様々な示唆をいただきましたし今後の初動体制へのモデルケースとして大きな参考になりました。仙台市の皆様お世話になりありがとうございました。震災ボランティア室及び広報委員会としてしっかり現場の状況を伝えます。

 2012年4月09日

 いま東京駅をはやて101号で出発し、仙台に向けて移動中です。瓦礫処理の現場の状況を確認させていただきます。震災ボランティア室では継続的に瓦礫撤去の作業を行ってまいりました。現在その瓦礫は仮置場で処理が進められていますので作業の全体の流れを確認し、今後の支援や新たな発災時の対応に生かしてまいります。

 2012年3月11日

いま神戸市の桂木小学校の理科室です。東北の被災地から段ボール箱で被災したアルバムを輸送し、ここ神戸で修復作業を行っています。僕の関係からも10名が参加。様々な場所で支援の輪が広がります。

 2011年09月20日

 夕方地元から東京へ移動。さらに深夜2時に東京を出て東北道で福島西で降り、現在福島県相馬市の相馬市役所前です。石原洋三郎代議士と合流しますがこちらも大雨でした。

 2011年09月11日

 黙祷。本日14:46、大震災半年のこの日、改めてご冥福を心よりお祈りいたします。この時間を再びかみしめる時、お亡くなりになられた皆様が、業務や家事に携わっておられた真っ最中の被災だった事を実感します。突如日常が崩壊する危機感を常に身に感じておく戒めを今痛感しています。

 2011年8月16日

 今年のキャンドルは一万本をこえたそうです。東日本大震災への思いがしっかりこめられた灯でした。来賓紹介をいただき、元気にご挨拶させていただきました!

 2011年7月29日

 ビッグパレット隣接の仮設住宅。避難所から仮設住宅に移ったから支援はおわりというほど楽観的な状況ではまったくありません。支援は次の段階に進む。継続的な支援活動を続けます。

 2011年7月29日

 一時は3000人くらいおられた避難者の皆様も現在は250名になりましたが、8月末解消をめざしているものの、仮設住宅へ移るに際しても、まだまだ課題は山積している現状。継続的な支援が必要です。

 2011年7月29日

 郡山市は豪雨。早朝新幹線で東京を出てビッグパレットふくしまに設置されている避難所に到着しました。大雨・洪水警報が発令されています。

 2011年5月4日

 5月3日は大船渡から陸前高田、石巻を経由し、福島へ。もうほとんど経由するという位置関係ではありませんが、各被災地の状況を確認しつつ、本日(5月4日)は早朝、福島市から南相馬市へ移動し、桜井市長から許可を受け、城島政調会長代理ら国会議員8名とともに福島原発から20キロ圏内へ入ることとなりました。  今回の調査では、おもに家畜の状況を視察。この家畜の問題は深刻です。20キロ圏の牛や豚の状況を、友人の高邑勉議員が撮影してきたその現場に入りました。  この課題については、また別途報告いたしますが、福島原発20キロ圏という線引きと、そこに暮らす人々、生業との調整に係る問題は徹底的に政治がフォローしないといけないと痛感しています。  継続してフォローアップを続けます。

 2011年5月3日

石巻市河北総合センター「ビックバン」避難所では、その環境がよく整備されており、もっとも注目したのは「古着等を陳列するコーナー」です。阪神・淡路大震災の際にも、善意で寄せられた古着が多数残ってしまい、廃棄処分をするにも大きな労力を必要としましたが、この避難所ではスタッフのみなさんのお力で、きれいにショールームのように陳列され、「選ぶ楽しみ」も感じられるような演出。避難所の方だけでなく、地域の皆様にも公開しているとのことです。この取り組みは、モデルになると実感しました。  継続してフォローアップを続けます。

 2011年3月31日

 陸前高田に到着したのが午前8時。田園風景がある坂を境に一変して瓦礫の山に。消防団の皆さまが捜索活動を続けておられました。毎日ご遺体が新たに発見されてく状況。ここでのボランティアは瓦礫や汚泥の除去ではなく、まだ避難所支援のみで、地域の皆さまが力を合わせて活動しておられました。 市街地は「壊滅」という以上に「消滅」に近い…言葉がありません。一部鉄筋の建物が残っているだけ…いや、それもほんの一部で、鉄筋の建物もほとんどが流されてなにものこっていません。津波によって「もちさられた」という感覚。河の氾濫の水害でも、水圧はあるでしょうが、増水して浸水するという状況でしょうが、津波は波の力に腕があって、すべてを引きずって持ち去るという猛烈なものだと感じました。  階段を駆け上がって、やっとの思いで3階建ての建物の屋上にたどりついても、今回の大津波にはのみこまれたでしょう。その状況は想像を超えています…。  陸前高田のボランティアセンターのあと、臨時の給油所が設置されたという高田ドライビングスクールさんを訪問し、状況確認。その後気仙沼に移動しましたが途中の道路は寸断、また気仙沼は火災で焼け焦げた瓦礫の山。その後南三陸を目指しましたが、その間の海沿い(国道45号線沿い)も壊滅した集落の連続。南三陸町も漁港が丸ごと廃墟…その状況は言葉にできません…。  石巻のボランティアセンターでは、やっと汚泥除去のボランティア活動が本格化してきました。今週末も100名規模で、ボランティア隊を派遣する打ち合わせができました。  その後、一気に東京にまで東北道を南下しまし午前2時に帰りつきました。明日(今日)の会議で詳細を報告します。

 2011年3月30日

 おはようございます。現在、東北道金成(かんなり)PAです。一関で高速をおりて陸前高田に向かいます

 2011年3月25日

 今日で大震災の発生から2週間たちました。この2週間はまさに一瞬の出来事であったような、永遠のように長かったような、阪神・淡路大震災以来の辛い感覚です。 はじめの72時間は自衛隊や消防の救助活動が最優先。その初動期間が終わった直後、後背地である山形県に坂口直人衆議院議員に赴いていただき、後背地からの宮城県支援の可能性を調査。翌日からボランティア準備室を立ち上げて、私の部屋(第二議員会館910号室)で支援準備を開始し、物資やチームの編成を行いました。 15日には、政府の災害ボランティア連携室の辻元補佐官も入って被災地議員からの緊急情報収集を実施、また同日、超党派のボランティア議連でも、現状報告を行いました。  阪神・淡路大震災の被災地のど真ん中で活動を行っていた私は、今回は、まずはじめの1週間は後方支援にまわろうと徹底して思いました。現場との温度差をしっかり解った人間が後方支援を行わないと混乱すると感じたからです。そしてそれはとても大事なことでした。 というのは、今回の災害は阪神・淡路大震災とはまったく種類の異なる複合災害だからです。当時の支援の状況と、今回の大震災の状況をつなぎ合わせて、逆に思い込みで支援をしないストッパー役にもなりました。  19日深夜には自己完結で支援物資の移送で福島県相馬市、南相馬市に向けて高邑衆議院議員と2人で運転を変わりながら移動開始。翌日相馬市、南相馬市、いわき市、北茨城市と、福島、茨城の被災地をまわりました。  被災地の状況は、頭でシミュレーションしていた状況を裏付けるものでした。  また改めて詳細は報告いたしますが、現在はこの週末に派遣する部隊編成を震災ボランティア室で行っています。私も、宮城に入る予定です。

 2011年3月21日

 北茨城市の豊田稔市長と、初鹿班を合わせて被災についての懇談を行っています。「ものより心を」と豊田市長。しっかりと政策課題を聞かせていただいて救援、復旧、復興に活かします。

 2011年3月21日

 合流を待つあいだ、北茨城市災害ボランティアセンターでヒヤリング。現段階ではガソリンがないため、瓦礫関連などの作業ではなくセンター内でボランティア活動を行っておられます。

 2011年3月21日

 原発を迂回して常磐道をいわき中央から北茨城に。いま北茨城市役所に到着しました。高萩市、北茨城市で土のう他の支援物資活動をしていた初鹿班と合流します。

 2011年3月21日

 支援物資、食料、マスク、トイレットペーパーをまだまだ物資の届きにくい南相馬にとどけました。自衛隊の重機も道路確保で活動中。おつかれさまです!

 2011年3月21日

 30km圏内で屋内待避になっている相馬市。7万人の人口のうち2万人の市民が物資の届かない中、大変な生活。やっと少しづつ物資も届きはじめましたがさらに実情を継続的にモニターしていきます。南相馬の津波の被害は甚大です。

 2011年3月21日

 相馬市ではボランティアセンターが本日たちあがりましたが、現状は市内の人々が参加する活動が中心。本格的に体制がととのい外部から受け入れる状況はもう少し先が適切と。

 2011年3月21日

 津波の猛烈なエネルギーで破壊された相馬市原釜地区沿岸部。なにもかもが押し流されている状況。

 2011年3月21日

 まもなく海岸線。相馬市原釜地区にむかっています。写真は打ち上げられた船舶。

 2011年3月21日

 早朝でしたが相馬市役所さんはすでに稼動。ヒヤリングをさせていただき、原釜地区へ向かいます。

 2011年3月21日

 明るくなってきましたがこのあたりは山越えで急カーブの続く難所です。相馬市山上付近。あと30分ほどで相馬市中心部に到着します。

 2011年3月21日

 午前4時55分、福島飯坂で東北道をおりました。相馬市方面に向かって移動します。

 2011年3月21日

 車は携行缶でガソリンを保有しているので問題ありませんが、安達太良の給油所はガソリン、レギュラー、ハイオクとも無くなって給油ができないとのこと。この時間ですが緊急自動車しか給油できないSAでこの状況です。

 2011年3月21日

 矢板で一旦外へでるルートへ誘導され、出口のゲートを使って検問所。被災地へ物資を支援する車両は緊急車両の認定をうけられます。出口をでてUターンしてまた本線にもどりました。

 2011年3月21日

 東北道を北上するのに、食事をとれる最後のサービスエリアが上河内です。警察車両が多数。

 2011年3月21日

 宇都宮を越えて緊急自動車のみの通行エリアに入りました。

 2011年3月21日

 現在こちらは岩舟JCTを越えて栃木市。橘ー宮崎班は仙台に到着、その後東松島経由で石巻、南三陸へ。平山班は現在仙台を越えて北上中、気仙沼を目指しています。

 2011年3月21日

 1時34分、浦和本線料金所通過。東北道に入りました。順調な走行です。

 2011年3月21日

午前1時5分に首都高速芝公園入り口、福島に向けて移動開始。食料品、マスク、トイレットペーパー等生活支援品を携行。

 2011年3月13日

 衆議院第16控室で第4回東北地方太平洋沖地震対策本部開催。各国からも支援があつまっていると岡田本部長から報告あり。 現在50か国から要請あり。外国支援対応班も今後拡充。 現状では人命救助を最優先で行い、加えて被災者の支援を全力で行うという方針が再度確認。 今後、震度5クラスの地震が7回発生しており、M7クラスの余震も想定される。今後も警戒が必要であるとの報告。 支援物資・救援についての道路の確保が重要。 現状全ての道路は一般車両禁止、ガソリンも不足。行政を優先している。政府関係の移動には自衛隊車両を使っている。 現状は許可証を発行して一般車両を入れる段階ではない。人、モノの移動は自衛隊のみに集中させて、陸、空、海で確保をさらに進めている。 物資については対策本部で受けて、官邸に集約。個別の被災地入りは現状許可されていない。官邸に物資担当班が設置されている。 防衛省は6万から10万人態勢に拡充を行うことを決定。 空港について、山形、花巻は地域拠点空港として確保している状況。 また原発への対応も全力で推進中。最悪の状況を避けるためにすべてのエネルギーを集中している。現場の職員は自らの身を捨てて命をかけて活動しておられることを認識しなくてはならないとの意見あり。これはまったくその通りだと想う。 保安院の説明への意見が多くよせられていることを認識し対応をとると。知りたい情報がしっかり伝わっていない現状を鋭意改善する。 各議員から何百と情報が寄せられ、人命にかかわる情報は官邸で対応中。 宮城県対策本部より、現地はこれまで電話も不通だったが今日復旧した段階。 対策本部の総会を明日月曜日の16時に行うことは既決。その前に対策本部の役員会は14時開催。14時30分総務委員会 15時に党役員会も予定。

 2012年3月12日

 昨晩は一睡もせず情報収集にあたる。午前中は都内の状況確認。15時半からFMみっきい電話取材で現在の状況を報告の後、ボランティア活動の今後について打ち合わせ。さらに16時半から衆議院第16控室で第3回東北地方太平洋沖地震対策本部が開会。岡田本部長より総理視察報告などをうける。 災害の状況は予断を許さない。現在は72時間をひとつの区切りとして人命救助を最優先で各部隊が展開中。しかし、津波の被害は想像を絶するものである。 明日の14時から第4回の対策本部を開会することを決定。 その後1期生有志で今後の活動についての打ち合わせ。現在は人命救助優先を確認、今後の復旧復興に関する具体的な内容を協議しました。

 2012年3月11日

 院内の対策本部から第二議員会館に戻り情報収集を継続中。民主党の災害対策本部は衆議院第13控室の幹事長室に設置。被災地の状況把握を継続中も、夜になり、状況はかなり悪化。刻一刻と厳しい状況が入ってきます。地震発生は午後2時46分、直後永田町周辺も強い揺れに見舞われ混乱しましたが、すぐに状況を把握、午後3時25分に本部を設置しました。
被害にあわれた皆様のためにも、国会議員としてできることを全力で行います。
テレビはカメラの入れる場所を報道しますので、現在入れていない場所の情報は入ってこない状況。阪神・淡路大震災でも同じ経験をしましたが、被害の規模は現在想像しているより極めて甚大であると直感します。
都内は帰宅困難で、スタッフが全て情報収集に当たっています。今後も、全力で情報収集、支援体制の構築を行います。
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2011年3月11日
「民主党東北地方太平洋沖地震対策本部」の設置について

民主党幹事長 岡田克也
今般の東北地方太平洋沖地震および津波の発生を受け、以下の構成で党本部に対策本部を設置する。

■構成
本部長       岡田克也  幹事長              本部長代行     仙谷由人  代表代行
輿石 東  参議院会長
玄葉光一郎 政策調査会長

副本部長      安住 淳  国会対策委員長           委 員      城島光力 政策調査会長代理
平田健二  参議院幹事長                     一川保夫 政策調査会長代理
羽田雄一郎 参議院国会対策委員長                 山口壯  政策調査会筆頭副会長
石井 一  副代表・選挙対策委員長
滝  実  総務委員長
長浜博行  財務委員長
横光克彦  組織委員長
馬淵澄夫  広報委員長
山根隆治  企業団体対策委員長
渡辺 周  国民運動委員長

政策調査会全部門会議座長
被害発生都道府県連代表
事務局長      藤村 修 幹事長代理

事務局長代理    長妻 昭 筆頭副幹事長

事務局幹事     副幹事長
内閣委員会、国土交通委員会、総務委員会、厚生労働委員会、農林水産委員会、安全保障委員会、災害対策特別委員会
関係各委員会理事
被害発生県連所属国会議員

対策本部は全議員を対象とし、全党を挙げて取り組む。

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